ジャイアント馬場さん 「はじまり」

私が最後に全日本プロレスに来日したのは、1996ジャイアント・シリーズ(1996年9月28日−10月18日)でした。私は、決して全日本プロレスを離脱したわけではありませんが、感情的な行き違いがありました。私は、馬場さんへの哀悼の気持ちを馬場元子
夫人に伝えました。 ジャンボ鶴田選手ともEメールを交換をしています。 また、全日本プロレス宛てにも、馬場さんへの気持ちを表したメッセージを送りました。

悲しいです。 私は、今でも日本を愛しています。 私は、日本とアメリカにいる日本人の友人達の助けを借りて、日本語と日本の文化の勉強を続けています。私は、馬場さんと全日本プロレスの皆さんが好きですし、尊敬しています。 私は、全日本プロレスにテキサス州アマリロのプロレスのスタイルを伝承しました。 私が現在、WWFファンキング道場で教えている事のいくつかは、私が、馬場さんから学んだ事です。 それは、馬場さんと私の共有の経験です。

私の気持ちは、変わりません。 私が、馬場さんに初めて会ったのは、1963年、ニュー・メキシコ州アルバカーキでした。 私は、彼の手を握り、彼の眼を見て、「お会いできて、うれしいです。」と言ったことを決して忘れないでしょう。 当時の彼は、大きくて、強くて、アメリカで活躍していた日本のスーパー・スターでした。そして、ジェントルマンでした。 その夜、馬場さんは、ムース・ショーラックを相手にメイン・エベントに出場しました。 私は、ネルソン・ロイヤル(元NWA世界ジュニア・ヘビー級チャンピオン)と試合をしました。 私にとっては、デビュー3戦目の試合でした。 当日は、スペシャル・レフェリーとして有名な元ボクサー、アーチー・モーア、他に リッキー・ロメロ(ヤングブラッズのお父さん)、ミスター・クリーン、フレッド・ブラッシー、サンダー・ザボー(元NWA世界ヘビー級チャンピオン)らが出場しました。 プロモーターは、マイク・ロンドンでした。

それが、私にとって、馬場さんとの初対面でした。 私は、彼の強さと サイズと そして礼儀正しさを決して忘れません。
 
 
 
 


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Translation by Masanori Horie
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Marti, Masa, and Dory


どうか神よ、二度と繰り返さないように

 話合いは、1969年の秋、ラスベガスで行われた。出席者は、 日本プロレスの代理人チャーリー モト氏、父、そして私であった。モト氏は、日本での試合の契約金について話し、私達は、モト氏の申し出を受け入れた。

父は、私と共に初めて日本を訪れた。私達は、広島の平和記念公園を見学した。私は、原爆ドーム、子供を守る母の像、そして原爆の後の復興した広島の光景を決して忘れないだろう。出る時、興奮で言葉にならなかった。十分ではないと思ったが、ペンとり、記帳した。「どうか神よ。二度と繰り返さないように。」 そして署名した。

日本での最初のNWA世界王座防衛戦は、1969年12月2日大阪でのアントニオ猪木戦であった。二人とも体調が素晴らしく、互角の勝負だった。リングサイドには猪木を応援する、吉村、若手のリキ百田(百田光雄)、ハル永源(永源遥)がいた。私の側には父と、ハリー・ レイスがいた。ゴングが鳴った。レイスがうなる。「猪木の手に乗るな。」その時、思った。「猪木よ、ここにいる奴らよ、みんな英語を理解しないでいてくれ。」猪木を見た。危険な男だ。コーナーを振り返った。父とハリー・レイスは、 もっと危険で意地悪だ。「 もしベストを尽くせずに この二人と顔をあわせるなら、猪木と闘うほうが ずっと楽だ。」内心そう思った。
 
 
 


 

みかんが割れて果汁が父の新しいグレーのシルクスーツ飛び散った。

猪木とは お互い取ったり取られたりの、大変充実した試合だった。速いペースで凌ぎあい、最高権威の 世界選手権を争った。足を取ろうとしたが 猪木は防さぎ、コーナーに押し込んできた。手を離し 猪木の動きの惰性を使い、後方のコーナーにたたきつけた。前腕を振り腹に当てた。もう一発は胸に当てた。猪木はカッと怒りに燃え、パンチを振り回してきた。たちまち、この偉大なレスリングの試合は けんかになった。ロープをくぐって 場外でもみあい、お互い激しく打ちあった。

しかし、ほとんど当らなかった。猪木の連発パンチを かわすことに努めながらも、頭に手を伸ばし、どうにか髪をつかみ かかえこみ、しっかりつかんでから、思いっきりアナウンサーの机に 叩きつけた。猪木は膝をつえた。私は少し一息つき リングに戻った。振り向くと、父が 猪木の向こうに立っていた。父は手を出した。猪木を助け起こし 懸命にリングに戻そうとしていた。父が猪木に手を出すと、ファンは立ち上がって抗議した。おそらく 猪木を攻撃したと思ったのだろう。

二階席から父に向かって 物が投げられるのを見た。投げた奴は 日本 のどこかの野球チームのエースだったに違いない。なぜなら父の胸に ドスンとあったったからだ。みかんだった。割れて果汁が 父の新しいグレーのシルクスーツに 飛び散った。父は怒って こぶしを 二階に向かって振り上げた。

試合の最後の10分は めちゃくちゃだった。私は何とかして猪木を倒そうとし、猪木は最善をつくして 私を倒そうとした。父は 何度もリングのエプロンに登る。ファンは立ち上がり、定期的に みかんが飛んでくる。ついにゴングがなった。一時間 の制限時間が過ぎ去った。この試合は引き分けで 世界ヘビー扱王座を防衛できたことを 知った。猪木に歩み寄り、握手していった。(偉大の試合だった)。
 
 
 
 


神よ、あのリングで五分以上闘ったら、誰も生きては帰れまい

二度目の来日は 1970年の夏だった。今回のツアーの呼び物試合は、再び大阪で組まれた。相手はジャイアント 馬場だった。馬場氏が 卓越した実力を持つプロレスラーであることを 知った。彼の運動選手としてのキャリアは、日本のプロ野球団 読売巨人軍のピッチャーとして始まった。たが、すぐに プロレスに引き抜かれ、゛日本プロレス界の父゛力道山によって 伝説的超新人 として迎えられた。力道山の 1963人 の早すぎる死後、ジャイアント 馬場は 彼に代り日本一のレスラーとして闘ってきた。会場は超満員で、あふれんばかりだった。NTVテレビは 試合をくなまく生中継し、視聴者は何百万人にもなっただろう。7月30日の大阪は 熱帯夜だった。当時は空調設備がなかったため、会場内の温度は 華氏105度にもなり、テリベ照明の下のリングは、絶えがたい暑さだった。あのリングの暑さは、マット上で目玉焼きができたと確信する。

あの夜出場したレスラーの一人、ブルート バーナードは 試合を終え、控え室に戻ってくると、汗を滴らせながら 真剣に言った。(神よう、あのリングで5分以上闘ったら、誰もいきては帰れまい)。考えが心中で 幾つも競い合っていた(5分で馬場を倒すのは無理だろう。私は 5分で負けない事も分かっている。まさか家から8000マイル離れた大阪のリングで 死ぬわけにはいかない)。立ちぶさがる危険も分かっていた。しかし、組まれた試合であり、経費や、メジャーなレスリング会社で 闘い続けるきつさも知っていた。私は決心した。闘おう、成行きに任せよう。

リングに上がる前から、汗が滴っていた。花束嬢がリングに上がり、鮮やかな着物を着ていた。リングアナウンサーは黒のスーツとタイを付けていた。上品な役人が スーツとタイを付け、認定証を持っていた。試合前に読みあげるものだ。皆が汗をかいていた。客席を見渡すと、皆が、見たところ全員が 何かを見つけてあおいでいた。うちわ、プログラム、プロレス雑誌。しかし、誰一人出ていかなかった。ジャイアント馬場がリングに上がった。皆の正気を疑った。テリビカメラマン、馬場、花束嬢、私、プロレスファンもそうだ。誰もここから出ていかない。試合が始まった。
 
 
 
 

猪木はその夜現れなかった

3度目の来日の会談が、父シニアと私、日本プロレスのアメリカ代理人 チャーリー モト氏との間で持たれた。世界ヘビー扱選手権が 再び大阪で組まれた。この時はアントニオ猪木とのリターンマッチの予定だった。その夜大阪の会場に来る時、レスラー生活史上最も難しい試合になることを予期していた。1969年 の最初の猪木戦に 匹敵する試合になることを予期していた。しかし試合はもう実現しなかった。猪木はその夜現れなかった。前柔道王者の坂口征二が 代わりを勤めた。幸運にも勝利をおさめ、世界王者のまま 大阪を後にした。猪木は 日本で最強のレスラーだと豪語しているが、あの大阪の夜、卑怯者になった。
Yakusoku wo mamorimasen deshita.

1971年3度目のツアーが 最初の会社、日本プロレスで闘った 最後となった。原因は気づかなかったが、会社は厳しい経営に陥り、すぐに業務を終えてしまった。そのツアーの最終試合の後、試合の報酬を 受取に行った。日本プロレス社長の遠藤氏は 机の向う側に座れ、100ドル札を出した。それからコートのポケットに手を入れ、10、20、と数え続け、ついにはズボンのポケットにまで手を入れ 折畳んだ札まで引っ張り出した。残りの5ドルと1ドル札を数えた。社長は質上がり、手を握った。我々は契約を結んでいた。口頭で約束していた。社長は たとえ自分のポケットだら 金を出すことになっても、言ったことを守ってくれた。社長の言葉は証書だった。Yakusoku wo mamorimasu.

日本プロレス株式会社は まもナく倒産した。アントニオ 猪木は会社を去った。ジャイアント 馬場は すぐに父シニアニ会いにきた。アメリカ人 レスラーを馬場の新しい会社、全日本プロレスリング株式会社のために確保しに来たのだ。
 

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